KISS

凄く好きなバンドです

ベアのコメントは
1972年 ニューヨークでWICKED LESTERというバンドで活動していたジーン・シモンズとポール・スタンレーの二人が、より優れたバンド結成に向けて同バンドを脱退。 新バンドメンバー募集の広告を出したことにより、ピーター・クリスが加入。 そして、エース・フレーリーが加入して結成された。最初は"Fuck"というバンド名を考えていたらしいが、さすがにそれは止めたようだ。

1974年 アルバムKiss(キッス・ファースト 地獄からの使者)でデビュー。他のバンドとの差別化を図るためにメンバー全員でメイクをして素顔を隠した事は話題にはなるも、当初の人気は奮わなかった。続くアルバムHotter Than Hell(地獄のさけび)も、同様の結果だった。

1975年 アルバムDressed to Kill(地獄への接吻)発売。 同アルバムからのシングルカット作品である「Rock And Roll All Nite(ロックン・ロール・オール・ナイト)」がヒットする。 ライブで徐々に力を付け始め、大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを敢行。 同ツアーを収録したライヴアルバムAlive!(キッス・ライブ 地獄の狂獣)が全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなる。 日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなった。

1976年 アルバムDestroyer(地獄の軍団)発売。 同アルバムからのシングルカット作品「Beth(ベス)」が大ヒットする。 DESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。 アルバムRock And Roll Over(地獄のロックファイアー)発売。 同アルバムからのシングルカット作品である「Hard Luck Woman(ハード・ラック・ウーマン)」がヒットする。

1977年 大阪厚生年金会館を皮切りに、初来日ツアーを果たす。オープニング・アクトにはデビュー間もないBOW WOWが起用されている。初来日時のツアー・パンフレットには、演奏される曲目があらかじめ印刷されており、アンコールも含めて綿密に計画されたパッケージ・ショウであることが裏打ちされていた。4月2日の日本武道館公演ではNHKによる撮影が行われ、後に「ヤング・ミュージック・ショウ」で放映された。 アルバムLove Gun(ラブ・ガン)、77年のライブとスタジオ新作を5曲収録したAlive 2(アライブ2)発売。 Love Gunは予約で100万枚を突破し、オリジナル作品歴代最大の売上を記録する。 Alive 2のシングルカットは「Rocket Ride」がヒット。 この頃になるとKISSは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。 しかし、同時期からバンド内の確執も起こっていた。 日本においては70年代後半を代表するバンドとしてエアロスミス、クイーンと共に「ミュージック・ライフ」誌などで特集が組まれ大人気を獲得した。 そして、暫くの活動休止を宣言する。

1978年 メンバーの各ソロアルバムが同時発売。エースのソロアルバム収録の「NEW YORK GLOOVE(HELLOのカヴァー曲)」がヒット。 リミックスを施したベストアルバムDouble Platinum(ダブル・プラチナム)発売。 NBCより映画「KISS MEETS THE PHANTOM OF THE PARK(地獄の復活)」が製作される。MEGO社より彼らのドールが発売。遊園地「KISS WORLD」の建設。 最早ロックバンドというよりは、キャラクターと化していた。

1979年 2年振りのオリジナルアルバムDynasty(地獄からの脱出)発売。 ロックブームは下火となり、ディスコブームだった当時の流行を意識したシングルカット作品「I Was Made For Lovin' You(ラヴィン・ユー・ベイビー)」が世界中で大ヒットする。この頃のピーターは、アルコールやドラッグ中毒となっており、バンド内ではお荷物的な存在となっていた。

1980年 人間関係の亀裂から、ピーターが脱退。その直後に、アルバムUnmasked(仮面の正体)製作開始。彼の脱退は、アルバム発売と同時にに報じられる。暫くは3人だけで活動していたが、後任の2代目ドラマーとしてエリック・カーが加入する。 UNMASKED TOURは以前ほどの勢いは見られず、アメリカ本国では失敗。主要マーケットであるアメリカと日本での人気は、下火へ向かっていった。しかし、オーストラリアとブラジル、ヨーロッパでは逆に大ヒットを記録した。

1981年 最初で最後のコンセプトアルバムMusic From“The Elder”(~エルダー~ 魔界大決戦)を発売。だが、売り上げはオリジナル作品歴代最低を記録することになる。この頃から、エースはバンドに失望を感じる様になる。

1982年 アルバムCreatures Of The Night(暗黒の神話)発売。 このアルバムのジャケット写真と同年発売のKiss Killers(キッス・キラーズ)のジャケット写真、『I Love It Loud(勇士の叫び)』のPVにはエースの姿はあるが、レコーディングには一切関わっておらず、エースは事実上脱退していた。 大半の曲は、ヴィニー・ヴィンセント(この頃はヴィンセント・キュサーノと名乗っていた)がリードギターを担当している。 ヴィニーの腕はメンバーに認められてはいたが、彼は正式メンバーにはされず、あくまでエースの代役としてツアーに参加した。

1983年 エースの脱退が公に報じられ、ヴィニーが2代目リードギタリストとして正式に加入。 アメリカ本国や日本での人気が低迷していた中、リオ公演にて歴代最大の観客動員数である13万人を記録した。 LAメタルブームに乗って製作したアルバムLick It Up(地獄の回想)発売。 心機一転を計るために、今までのメイクを止め素顔を初めてさらした。 しかし、人間関係の縺れからヴィニーが解雇される。だが、後任が決まらない事やツアーの関係から、再度雇用する事となる。

1984年 ツアーの終了後、ヴィニーが脱退(解雇)。 ツアーメンバーでもあったマーク・セント・ジョンを3代目リードギタリストとして急遽加入させ、Animalize(アニマライズ)を完成させた。Animalizeは100万枚の売り上げを記録した(80年代最大のヒット)。しかし、ANIMALIZE TOURの最中にマークは病気にかかりギターを弾くことが出来なくなったため、やむなく半年で脱退(病気は後に完治したが、KISSに復帰する事は無かった。彼の脱退は諸説あり、「ギタリストの神になる」という発言がジーンの気に障ったのも一つの原因と言われている)。後任は、ツアー中にマークの代役を担当していたブルース・キューリックが4代目リードギタリストとして加入する。そして、80年代はこのメンバーで定着する。

1985年 アルバムAsylum(アサイラム)発売。このアルバムもヒット作となり、再び上昇気流に乗り始める。

1987年 Crazy Nights(クレイジー・ナイト)発売。当時流行していたシンセサイザーを導入し、このアルバムはプラチナム・アルバムを記録した。

1988年 新曲を3曲収めたベストアルバム Smashes, Thrashes & Hits(グレイテスト・キッス)発売。名古屋市公会堂にて、10年振りの来日公演も果たす。

1989年 エリック・カーの初ヴォーカル曲を収録したアルバムHot In The Shade(ホット・イン・ザ・シェイド)発売。

1991年 オルタナブームに乗り、ヴィニーとの共作アルバムRevenge(リヴェンジ)の製作を開始。だが、エリック・カーが11月に悪性腫瘍を伴う脳出血で他界してしまう。だが、この悲劇を乗り越えエリック・シンガー(ポールのソロツアーメンバーでもあった)が3代目ドラマーとして加入する。

1992年 Revenge発売。数年振りに、ビルボードにランクインする。

1993年 92年のライブを収録したAlive 3発売。

1994年 TV局から100万ドルでオリジナルメンバーでの出演を依頼されるが、ポールとジーンは即座に断った。

1995年 「MTVアンプラグド」で元メンバーのエースとピーターを含めたラインナップでライヴ演奏を行ったことにより、オリジナルメンバーでの再結成が決定する。 だが、それによりブルースとエリック・シンガーは脱退した(当初は有給休暇だったが、その後ブルースは完全に離脱した)。 その模様を収めたライブアルバムKiss Unplugged(地獄の再会)発売。  

1996年 13年振りにメイクを施して行った、大規模な世界的ツアーALIVE/WORLD WIDE 96-97開始。

1997年 東京ドームにて、オリジナルメンバーでの13年振りの来日ツアーも果たす。だが、大阪公演にてジーンが風邪で喉を痛めてしまい、彼のヴォーカル曲のほぼ全てがセットリストから外されるというハプニングも勃発。 オリジナルメンバーによるツアーは大きな話題を発し、大成功を収めて終了した。 海賊版対策として、オルタナブーム時に製作しつつもお蔵入りとなっていたCarnival Of Souls(カーニヴァル・オブ・ソウルズ)発売。 しかし、オルタナブームは既に去っていた為、売り上げは低かった。 ALIVE/WORLD WIDE 96-97の終了後、仕切り直しとしてLOST CITIES TOURを開始(前回のツアーで行けなかった土地だけのツアー)。 コロンバス公演のリハーサル中、ピーターが腕の不調を訴え、ドクターストップを宣告される。この日のライブは、エディー・キャノンというドラマーが一夜限りの代役(THE CATMANのメイクも施した)を務めるが、彼のドラムと演奏が殆ど噛み合わないというKISS史上に残るハプニングとなった。

1998年 アルバムPsycho Circus(サイコ・サーカス)発売。話題にはなるも、売り上げは今一つという結果に終わる。だが、同アルバム名を掲げたPSYCHO CIRCUS TOURは無事成功を収めた。

2001年 KISSが解散を宣言(後に完全に破棄)。 THE FAREWELL TOURの直前に、ピーターが再び脱退。ツアーが危ぶまれたが、元メンバーのエリック・シンガーが復帰。ツアーを無事敢行した。

2002年 ソルトレイクシティオリンピックの閉幕式に突如飛び入り、「Rock And Roll All Nite」を演奏。このステージを最後に、エースが再び脱退する。 元Black ‘N Blueのトミー・セイヤー(89年頃から、裏方やツアーマネージャーとして活動、アルバム『Psycho Circus』のレコーディングにも参加)が、エースの代役として出演したのをきっかけにして、5代目リードギタリストに抜擢。そして、同時期にピーターが再び復帰し、エリック・シンガーはまたも脱退。

2003年 10月16日 LAのクラブで発砲事件が発生。偶然居合わせたブルースが脚を撃たれ、頭部にも掠り傷を負ってしまう。幸いにも、彼の命に別状は無かった。

2004年 ピーターが3度目の脱退、エリック・シンガーが再び復帰。

2006年 ファンが200人集まり、ロック殿堂博物館前でKISSのロック殿堂入を要求するデモが行われる。 十分な資格と功績のあるKISSが殿堂に招かれないことに不満らしく、ボードを掲げて30分の抗議活動を行なった。 殿堂博物館によれば、こうしたデモは初めてのことだという。 7月23日 日本のUDO MUSIC FESTIVALに出演。大阪と静岡で、KISS史上初の野外ライブを行った。

2007年 4月5日 マークが脳出血で他界。享年51歳。 7月27日 カルフォルニア公演当日のリハーサル中に、ポールの心拍数が突如通常の2倍に上がってしまい病院に搬送される。だが、この日のライブは代役を起用せず、ポールを除く3人で決行した(ポール不在のライブは初であり、KISS史上最大のハプニングライブとなった)。ポールは、「この借りはいつか必ず返すよ」とコメントを残した


全て読んでませんが 全てWIKIさんを借用してます

 卒業生の論文みたいに・・簡単に借用して・・申し訳ありません
  


今日は時間の都合で・・参照させていただいたことに感謝します
 いつか書きたいと思いますが・・先輩のを超えたいのが・・人情です
  

先輩達の心暖かさに救われる・・旅でした
 




訴訟が発生したら・・向かいません
 まずは・・文句は・ 全て排除します
 訴訟になれば・・姿は・・現しません
  完全否認です
   関連さえも・・否認します

 
旅のプロブは・・対テロ対策は常に行ってます
 毎日の エロ対策をしてることを・・判ってね(ワカちゃんも好きなタイプです)

 





















































































































恋愛関係の 緊張感は・・1週間がリミットだと思います
 突然の 恋愛講座

旅の・・個人的な 経験論だけの話です
 相手の女性は・・一般人じゃないです
  
 当時 二人の女性を紹介受けて・・プールに誘われた
  (うぶな・・旅は・・誘われたままです・・うぶでした)

共に 今でも・・友達なので(一人は妻)・・無理は言えないが
 紹介 Aさんと  Bさんとしましょう
 旅は Bさんといずれは・・結婚した)


 プールに入ったとき
  恋心を抱いたのは・・Aさんでした
  Bさんは・・暗い感じしかなく・・それ以外なし

  はっきりいいますが・・
   Aさんは  スタイルもAさんでした

  Bさんは 小柄でしたが・・胸はDさんでした

 はっきりいいますが
 一緒に泳いでいて Aさんの乳首が 水着越し見えることが以外でした
  (顔・・スタイル・・的に・・ 妻を選んだ。。。)



今日の時点では・・ここまで

話しても良いけど・・時間経過が必要だ
 
はっきり言って・・私と妻の結婚までのいきさつは・・やばい・・です

by 旅20071020・・お休み
















今日は・・真剣な話ばかりでごめんなさい
 by・・旅人 2007.10.20


今思うと・・妻との結婚は・・策略だったのか??
 うぶな 旅は・・まんまと女性の魅力に 負けたのか!!
 巨乳フェチの旅でした
  
 その当時は・・貧乳は女性と思わなかった・・・



でも・・最近  
 ロリコンに目覚め始めです
 (理由は 妻が・・相手してくれないから・・)
 貧乳 美乳・・豊乳も・・全て・・扱いたい





こんなこと言いたくないが
  気ままにHさせてくれる女性は居ないのかな??
  出会いも難しいと思うが・・・
 
  女性が・・開放しなくては・・無理ですね
   
  いやらしい男の発言ですが
   したい気持ちは・・自分だけで処理するしかないね

  何故・・女性は・・消極的
   
死ぬまで  処女守りたいのでしたら・・何もいいませんが
  子ども産みたい女性でしたら
   私の妻みたいに 10人ほどは経験を重ねてください

 それも若い時に
  

私は・・15人目の男と・・妻に言われました
 ・・
 ・・
その後の会話は・・機会あれば・・です












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